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市の文化財

文化財ガイドマップ(PDF版) 

服部家住宅

服部家住宅 写真服部家は、織田氏との戦乱の後、天正4年(1576年)頃に旧領地荷之上城の跡に居を構えた。当主弥右衛門尉正友は、戦乱で散った百姓などを招き寄せて荷之上村を再興したという。当家の主屋について『尾張名所図会』には「その家は天正年中に建てしままなり」と記されており、構造上からも県内有数の古い民家である。代々大庄屋をつとめるとともに、名字帯刀を許され、また津島天王祭の市江車の車屋を司ってきた。主屋・離れ座敷・表門(付土塀)のほか文庫蔵・文書・古図・宅地までが重要文化財に指定されている。 

銅造阿弥陀如来坐像

この仏像は、龍華山弥勒寺の本尊で、背面の刻銘に、明応9(1500)年藤原宗次の作とある。宗次は梵鐘や鰐口の鋳工として知られ、仏像の専門でない鋳工が作った貴重な仏像である。
弥勒寺は、仏像と同じ明応9年の創立で、もともと現在の七宝町伊福にあったが、戦国時代の戦禍により寺は失われ、仏像だけが伝えられていた。寺は元禄4(1691)年に鳥ケ地新田に再興され、同12年現在地に移された。

銅造阿弥陀如来坐像


柴ヶ森

柴ヶ森 写真平治元年(1159年)12月の平治の乱に敗れた源義朝らは、美濃の青墓宿(現大垣市)まで逃げてきたが、平家の追討がきびしいため、舟につんだ柴の下にかくれて知多の野間へ落ちていくことにした。途中の平家の検問を逃れ、この地まで来てもう大丈夫だろうと舟荷の柴を川岸に上げた。このことから「二之江村」が「荷之上村」と改められ、川辺の柴が芽を出し年々大きな森になったことから「柴ケ森」とよばれるようになったという。
記念碑には旧佐屋町(愛西市)出身の元内閣総理大臣加藤高明の題字「柴ケ森」
が刻まれている。


興善寺地蔵

興善寺地蔵 写真白頭(現在の東名阪弥富インターチェンジ付近)には、かつて荷上山興善寺という蓮如上人の孫にあたる実正を養子に迎えたほどの由緒ある寺があり、末寺は70ケ寺にも及ぶ大きな勢力をもっていた。興善寺は寺伝によれば、桓武天皇の勅願により延暦14年(795年)に創建されたという。天正2年(1574年)、織田氏に焼き払われた後再興されたが、寛永8年(1631年)の大地震で倒壊し清洲に移転し、さらに名古屋に移った。
この地蔵は、明治24年(1891年)の濃尾地震後に、白頭池から2体掘り出され、荷之上の墓地に安置されたもので、興善寺の地蔵と伝えられている。 

                         うぐいうら
薬師寺大楠

薬師寺の大楠 写真
この大楠は、樹齢600年以上といわれる古木で、かつてこの付近が海岸線だったことから磯部の楠として有名であった。人々は、この楠の葉を薬として用い病を治したといわれ、 また一説には豊臣秀吉が舟をつないだとも伝えられている。
この樹下には小祠神明社が祀られ参拝者が跡を絶たなかったというが、明治時代に弥富神杜に合祀された。
鯏浦城は、このあたりに勢力のあった服部左京亮の率いる服部党に対抗するため、織田氏が築いた城である。
元亀元(1570)年、服部党が鯏浦城主織田信興(信長の弟)を小木江城(旧立田村)に攻め殺したことを機に、
信長は攻勢を強め、三度目の天正2(1574)年には大軍を送り込んでことごとく焼き尽くしたという。城跡には、
信興が護持仏としていた薬師像を納めるお堂が建てられ、これが現在の薬師寺の由来とされている。
城跡の記念碑は昭和51年に建てられた。

                たんぷう
孝忠園
孝忠園 写真
孝忠園は、漢詩人として全国的に知られた服部擔風(1867-1964)の古希(70歳)を記念して、昭和11年11月15日、門人らにより建設された。この碑には擔風の詩が刻まれている。「月に嘯き花に吟じて鬢糸となる 昭代を謳歌してまたなんぞ疑わん 人に向かって説き与う温敦の旨 子は孝 臣は忠 これ我が師」。常に誠実、真心を説き、子は親に孝行、臣は君に忠実であることが私の師とするところであるといい、このことから孝忠園と名付けられた。
筆塚は、昭和41年12月11日、擔風の三周忌にあたり門人らによって詩碑の隣に建てられた。碑面の文字は、生前親交の厚かった永平寺熊沢泰禅師の書である。


    たけなげし
竹長押茶屋

竹長押茶屋 写真この建物は、明治5年(1872年)、名古屋城北御深井丸にあった尾張藩御用の離れ休息茶屋の一部を佐藤七三郎氏が購入し、当時筏川の船着き場であったところに移築したものである。
各部屋に竹の半割の長押を使用してあるのでこの名がある。襖絵は江戸時代の著名画家の筆によるもので、調度品も逸品である。明治時代にはたびたび天皇、皇后などの東海道中の休息所として使用された。



おみよしの松

おみよしの松 写真この松は、正保3年(1646年)の平島新田開拓当時の植樹と伝えられ、樹齢は350年以上にもなる。おみよし松の名の由来は、筏川の川岸に津島神社の天王祭の御葦舟(葦で編んだ小舟)が流れついているのを見て、天王結縁の土地を記念して植樹し、「御神葦松」と名付けたものと推察される。
昭和32年の旧弥富中学校建設のとき、筏川の一部が埋め立てられ、川岸にあった松が校庭内にとりこまれた形になった。この兄弟松が平島町地内にあったというが今では枯死し昔話に聞くのみである。


                      せき
立田輪中人造堰樋門
立田輪中人造堰樋門 写真
排水に苦慮した立田輪中普通水利組合は、木曽川改修工事の行われた明治35年(1902年)にこの樋門を完成させた。しかし、排水の効果は十分得られず筏川を利用し排水することになった。その後、用水の取水に利用されたが、海部幹線水路の完成により遊休樋門と化した。立田輪中の好意により旧弥富町が権利を継承し、水利史の遺跡として輪中公園のなかに保存している。


                             はん か い
木造阿弥陀如来像

この仏像は子宝に伝わるもので、立像または坐像の多い仏像の中で、このような半跏倚像は全国的にも珍しいものである。
高さ57cm、桧材の寄木造りで、仏像の胎内から「南無阿弥陀仏奉納 延宝二甲寅(1674)年 十一月三日 右願主 曽谷三右衛門」と記された文書が見つかっているが、製作はもっと古いものと思われる。
木造阿弥陀如来像


二つお宮の松

正保4(1647)年以降、東蜆を含む十四山地区の北部の村々が新田開発され、安全平穏と五穀豊穣を祈願し、各村々には神社が勧請された。昭和34年の伊勢湾台風で壊滅的な被害を受けた当地域では、多くの樹木が枯死したが、東蜆の山神社にあったこの老松は奇跡的に生き残った。山神社は承応3(1654)年の勧請と伝えられ、この松もその頃の植樹と考えられる。
現在、樹高は約16m、根周り約3.1m、目通りの幹周り約1.9mに及び、「二つお宮の松」として多くの住民に親しまれている。
二つお宮の松

     う
烏の池

海の中に堤防を築き新田を開発してきたこの地域では、高潮や地震で堤防が切れ洪水になることが多く、堤防の切れた跡に、澪(みお)と呼ばれる池が各所に残されていた。しかし、現在はほとんどが埋め立てられ、この「烏の池」が唯一の澪の跡となった。「神戸家文書」に宝歴7(1757)年の大水でこの場所に澪ができたという記録がある。また、この池には八大龍王の伝説が残っている。
烏の池

           そ  よ
孝女曽與宅址

享保13(1728)年鳥ケ地で生まれた曽與は、幼い時に母親と別れ父親に苦労して育てられたため、父親のありがたさを思い一生懸命働いた。酒を飲み生活の寂しさを忘れようとした父親を、曽與は哀れに思い孝養をつくしたという。この話が鳥ケ地に住む西河菊荘により『孝女曽與伝』として安永7(1778)年に出版された。曽與は寛政12(1800)年に71歳で亡くなったが、その後も善行は称えられ、明治から大正時代にかけての修身の教科書に載り、全国にこの話が広まった。弥勒寺には今も曽與の墓が残っている。
孝女曽與宅址

           いん ぽ
宮崎邸址

宮崎いん圃は、江戸時代の中頃に活躍した旧十四山村出身漢学者・文化人で、享保2(1717)年に鳥ケ地で生まれた。幼い頃から聡明で10歳で漢詩を作ったと伝えられ、この頃に父とともに名古屋に移り学問に励んだ。
17歳の時に京都に移って儒学者の伊藤東崖に学び、その傍らで書画を修めた。特に竹を描くことに優れ、浅井図南らとともに「平安四竹」と称えられた。
この碑は、大正5年に建てられ、現在十四山中学校のグラウンドの片隅にある。また、弥勒寺には、文化11年に建てられた、宮崎家のいわれを記した碑が残されている。
宮崎邸址

森津の藤
森津の藤 写真
この藤は、正保4年(1647年)の森津新田開拓当時に植えられたと伝えられている。尾張名所図会に『棚の広さ縦横二十五間四面、およそ棚の高さ二間ばかりにして、花の長さ四、五尺より一間程にも及べり』と紹介され、花が満開になると昼間でも空が見えず、まるで紫の雲に覆われたようだとも記されている。遠足の小学生や、庭が鍋田川に面していたことから潮干狩りの舟も立ち寄り、地面にすれるほどの藤の花を楽しんだという。
伊勢湾台風により樹勢に衰えがみられるものの、平成6年に公園整備が行われ、花の時期には今でも大勢の人が訪れる。


六体地蔵
六体地蔵 写真
この六体地蔵は、稲元の墓地の一角に安置されている。稲元の開拓は元禄8年(1695年)で、宝永3年(1706年)に検地を受けている。二体目の石仏の背面に宝永2年(1705年)の刻字があることから開拓による犠牲者を供養したものと考えられる。知多郡大野村(現常滑市)で綿屋を営んでいた平野六兵衛秀勝がこの地を開拓したことから、稲元のことを大野綿屋新田とも呼んでいた。秀勝が開基した稲元の秋葉寺には墓碑とともに肖像画が保存されている。

    はっぽ
八穂地蔵

八穂地蔵 写真現在の鍋田干拓の一部にあたる八穂新田は、江戸時代末の天保4年(1833年)頃から開拓された。しかし何度も破堤を繰り返し、安政元年(1854年)の大地震に続き翌年の暴風雨により、ついに海に沈んだまま放置されることになった。それから20年後の明治8年(1875年)、その地において富島の漁師によって地蔵が引き揚げられ、約90年の間、富島で八穂新田の地蔵として安置されていたが、伊勢湾台風後の鍋田干拓復旧工事完了も近い昭和38年(1963年)、現在の場所に移された。 水害により海に沈み再び引き揚げられた八穂地蔵は、不屈の精神で新田開発を成し遂げてきた先人の偉業の歴史を物語るものである。



                                                    文化財ガイドマップ(PDF版)

【問い合わせ先】 弥富市歴史民俗資料館   電話0567-65-4355                            


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